初めての月命日、母に寄せて(後編)

初めての月命日、母に寄せて(後編)

2018年12月18日午前6時6分、
僕と弟の母、輝子さんが静かに息を引き取りました。
父と弟と伯父と僕の4人に見守られて、
とても静かにとても穏やかに息を引き取りました。

初めての月命日、母に寄せて(前編)はこちら

静かで穏やかな母と、静かで穏やかな時間

旭川と東京、僕も弟も離れて暮らしているから、付きっきりとはいかないけれど、僕も弟も出来るだけ都合をつけて、旭川に滞在する時間を捻出しました。

僕から母へ家族インタビューをしたり、僕と弟が幼かった頃の写真を一緒に見ながら思い出に浸ったり、孫たちも連れて行って東京の様子を話して聞いてもらったり、一緒に写真を撮ったり。物静かは母は多くは語らないけれど、母との静かで穏やかな時間がゆっくり流れていきました。

母は入院以来、次第にできることが減っていきました。
立ち上がることができなくなり、起き上がることができなくなり、食事を取れなくなり、体力の衰えとともに口数も減っていきました。会話もはいといいえで答えられる程度のことに限られていきました。

それでも話しかければ目を合わせてくれる。
話を聞いてくれてありがとうね、お母さん。

「お水、ください」
自分のことはいつでも後回しの母から僕ら家族へのリクエスト、いつでも何度でも喜んで応えました。でもそれも難しくなっていった。母が水を飲み込めなくなっていったから。上手に飲み込めずに吐いてしまう。もうストローで飲む力はなく、スプーンで2、3杯のわずかな水を飲む程度になるころには、母の声はどんどん出なくなり、リクエストも「お水」と一言に変わっていき、とうとう全く声が出なくなり、お水のリクエストも手を動かすジェスチャーのみに変わっていきました。

それでも意識はとてもしっかりしている。緩和ケアの痛み止めで眠っている時間はどんどん増えていくけど、起きている時の意識はとてもしっかりしている。

なにがしてあげられるだろう?
こちらの声が聞こえるのだから、と聖書の朗読をすることにしました。
「聖書の中でもどこが好き?」
「イエス・キリストが人々に教えているところ」
まだ会話ができるうちに聞いておいてよかった。
お母さんが好きなところ、今から読むね。 

母に繰り返し何度も読んで聞かせた章

母は最後の瞬間まで母だった

いよいよ、“その時”が近づいていました。
容態としてはもういつ“その時”が来てもおかしくないとの知らせを受け、11月下旬より僕と弟は旭川入りし病院の家族室に泊まり込んでいました。
そこから静かで穏やかな母と同じ屋根の下で過ごす最期の時間、「あと数日かも」と言われてから3週間も持ってくれる母が作ってくれた家族の時間、奇跡のような静かで穏やかな時間、本当に本当にありがとう。

そして、いよいよ今夜かも、と何かの予感を感じたその夜、
母が突然、宙を舞うように何かを探したあとで病室にいた僕の顔を見つけて、何かを訴えるようにジッと見つめてきた。「お水?」「写真見る?」「どこか痛い?」、声の出ない母は全て首を横に降り、もう持ち上げるのも大変なはずの自分の手を持ち上げて僕の顔を触り出した。僕の目を優しく見つめながら、僕の頬を撫でる母の手、そうか、今夜なんだね。
自分の方がよっぽど大変な体なのに、最期の最期まで僕の体を心配してくれる母。

今しかないと思った。
「産んでくれてありがとうね、沢山の時間をくれてありがとうね、小さな頃は喘息持ちで体が弱くて、もしかしたら大人になる前に死んじゃうかもってお医者さんに言われて心配ばかりかけてしまった僕だけど、今の僕は44歳で健康診断だって良好で、妻のありさと二人の賑やかな子どもと毎日楽しくて、本当にもう心配ないからね。
僕の話をたくさん聞いてくれてありがとう。お母さんの話をたくさん聞かせてくれてありがとう。全部、大丈夫だから、安心してね。本当に、本当にありがとう」
ずっと伝えたかった本当のありがとうを僕の目を見ながらじっくり聴いてくれてありがとう。ちゃんと聴いてくれたって、ちゃんとお母さんの心に届いたって、僕にもわかったよ。

そのあと、すぐに家族室にいる弟と父を呼んだ。この奇跡の瞬間は家族みんなのものだと思ったから。
ベッドの脇に立った弟を見つけた母は、僕にしたのと同じく、弟の目を見つめながら頬と頭を撫でていた。ああ、体のことをきづかってくれているんだな、弟もすぐにわかった。弟から母へのありがとうの時間、年子で仲の良かった僕ら兄弟を母はいつだって公平に扱った。最期の最期まで母は僕ら二人に公平に優しかった。
そのあと、母は父の手をそっと握っていた。

それが母と、僕ら家族の最期の相互コンタクトとなった。そのあとは焦点の合わない目で天井を眺めながら静かに弱々しく呼吸する母、こちらの呼びかけに応える体力はないようで、“お水”のリクエストも無くなった。
それからの数時間、父と弟と駆けつけてくれた伯父(母の兄)と僕は母のベッドを囲んで母について語らった。思い出の写真について話したり、母のゆかりの音楽をかけたり、聖書の朗読をしたり、母と手を繋ぎながら、母に語りかけながら時間を過ごした。
そして明けた朝、12月18日朝6時6分、父と弟と伯父と僕の四人に見守られながら、母は静かに穏やかに息を引き取った。苦しむことなく静かで穏やかな、母そのもののような、そんな最期だった。
お母さん、あなたの偉大な死に感動しました。あなたの息子でよかった。ありがとう。

手を握る母と父
手を握る母と父

母のお送りの会をファシリテーションする

母の葬儀は、僕と弟による手作りのものになった。

実は母と父は宗教上での対立も一因となってすでに離婚している。バプテスマを受けた母と、土方の現場主義者で神なぞいるものかと語る父、穏やかな母が僕の知る限りで唯一強い感情をぶつける相手が父だった。

そんな二人も、最期に残された時間はケンカをやめた。父は母の足のマッサージに通い、献身的に看病し、母はそれに感謝の言葉をおくっていた。
だから、いろんなわだかまりは全部置いておいて、父にも絶対に葬儀に出席してほしかった。クリスチャンの母の意思に叶う葬儀であり父も心置きなく参列できる葬儀、このバランスを取り持てるのは、この世界で僕と弟の二人だけだった。

僕は弟とも相談して、式次第と総合進行を僕が、思い出を振り返る写真ムービーの制作と会場手配のサポートを弟が担当することにし、僕の嫁さんと弟の奥さんにも手伝ってもらう、手作りの葬儀を執り行うことにした。

母の仲間の皆さんにも相談して、教義に沿った式次第になるように準備し、看病と看取りに駆けつけてくれた伯父(母の兄)にも事前に了解を得て、アメリカに移住して久しい叔母(母の妹)は駆けつける予定だったのがインフルエンザでどうしても難しく、メールで相談して母への手紙を書いてもらった。

こうして次のような式次第ができあがった。

<式次第>
母・輝子の歩み、どんな出会いで何を喜んだのか、聖書朗読
母・輝子の写真スライドムービー
参列者全員からの母・輝子を偲ぶ言葉
叔母からの手紙朗読
叔父からの言葉
父からの言葉
次男(弟)からの言葉
長男(僕)からの言葉

母の葬儀の進行、写真前列に座るお坊さんは伯父
参列者全員が母を心から思う時間になるような進行を心がけた

母・輝子の歩みをマインドマップでナビゲート

母の葬儀は、母との別れの瞬間と同じく、感動的な時間となった。
参列者全員の言葉で母を偲び、母の優しさ、穏やかさ、揺るぎない人格を振り返り、母の思い出を大切に心にしまうような、優しい時間になった。

父も弟も、もちろん僕も泣いた。
僕から母への言葉を聴きながら8歳の息子も泣いていた。

葬儀の後、僕が生まれる前からの母の友人から「いいお式だったね、ご苦労様」と、僧侶でもある伯父からも「思いのこもった素晴らしい会でした」と、労いの言葉をもらった。

僕は僕の役割をどれほど果たせただろうか?
振り返るなら、生前の母に十分なことができなかった、入院より前にもっとできることがあったはずだ。それでも母の静かで穏やかな最期の時期と最期の瞬間を共にでき、母を送る会を無事に終えられたことは、本当に良かったと思う。
この時間を、この機会を与えてくれた母に、父と弟に、妻と子ども達に、伯父と叔母に、参列してくれたシロとマリに、旭川から東京から全国からたくさんのエールを送ってくれた友人と仲間たちに、ありがとう。みんな、本当にありがとう!

最後に、葬儀の最後でも読み上げた母に贈る聖書の一節をご紹介します

愛は辛抱強く、また親切です。
愛はねたまず、自慢せず、思い上がらず、
みだりな振る舞いをせず、自分の利を求めず、
刺激されてもいら足立ません。
傷つけられてもそれを根に持たず、
不義を歓ばないで、真実のことを共に歓びます。
すべての事に耐え、すべての事を信じ、
すべての事を希望し、すべての事を忍耐します。
愛は決して絶えません。
〜コリント第一 13章〜

最後までお読みくださり、ありがとうございました。

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